「闇サイト殺人事件」の神田司死刑囚の死刑執行
転載元 ⇒ 産経ニュース
2015.6.25 11:25更新
「闇サイト殺人事件」の神田司死刑囚の死刑執行 第3次安倍内閣で初
法務省は25日、平成19年に名古屋市内で起きた「闇サイト殺人事件」の神田司死刑囚(44)=名古屋拘置所=の死刑を執行したと発表した。第3次安倍内閣で初めて。上川陽子法相は就任直後の記者会見で「今の法の仕組み、枠組みを前提として行動するのが第一義。澄んだ心でこの制度に厳正に向き合うつもり」と死刑制度を維持する意思を表明していた。
これで未執行の確定死刑囚は、静岡地裁が平成26年3月に裁判のやり直しを決定するとともに刑の執行を停止した袴田巌さん(79)を除いて、129人となった。
上川法相は昨年10月に就任して以来初めての執行となった。谷垣禎一元法相が昨年8月に執行したのが最後。松島みどり前法相は約1カ月半の任期中に一度も執行していなかったため、10カ月ぶりの死刑執行となった。
確定判決などによると、神田死刑囚は19年8月、携帯電話のサイトで犯罪仲間の募集に応じた2人の男と名古屋市内のレンタルビデオ店の駐車場で落ち合い、若い女性を拉致して強盗することを提案。2人も同意し同日夜、帰宅途中の女性会社員=当時31=を乗用車に押し込んで手錠をかけ、現金約6万円とキャッシュカードを奪った。
さらに女性の頭部をハンマーでメッタ打ちにして殺害し、遺体を岐阜県瑞浪市の山中に埋めた。
神田死刑囚らは偽名を名乗るなど互いに素性も知らないまま犯行に及んでおり、インターネット社会における安易な犯罪の構図が浮き彫りになった。
1審名古屋地裁は平成21年3月、死刑を言い渡し、神田死刑囚はいったん控訴したものの、翌月に取り下げて死刑が確定した。
死刑制度をめぐっては、内閣府が今年1月に発表した「基本的法制度に関する世論調査」で死刑制度容認派が約8割にのぼっていた。
にほんブログ村
松田まゆみさんが死刑に反対する理由
松田まゆみさんは、死刑に反対しています。その理由は以下の通りです。
( 鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 より転載)
はじめに申し上げておきますが、私は死刑には反対です。一刻も早く、死刑制度を廃止すべきだと考えています。なぜなら、たとえどんなに残虐な殺人を犯した人であっても、その人は私と同じ血の通った人間であり、悪魔でもなければ鬼畜でもないからです。私自身、絶対に人を殺したくはないからです。おそらくその感覚は私の良心からくるもの、というより人間の生物としての本能のようなもの、人という生物に備わったタブーではないかと思うのです。「殺人はしてはいけない」と教えこまれなくても、人というのは、本来は殺人など安易にしない動物ではないでしょうか。
「死刑では償いにならない」「冤罪であれば取り返しのつかないことになる」といった論理もその通りだとは思うのですが、それ以前に、人は同種である人を殺すようにできてはいない(犬や猫であればいいというわけではありませんが)と思えてなりません。もちろん、実際には人を殺してしまう人がいるのが現実なのですが、それには何らかの事情があり、どこかで道を間違えたり、あるいは迷ったり、追い込まれたということではないのでしょうか。生まれもっての殺人者などいるとは思えません。誤ったり迷ったり、追い込まれた人たちに与えるべきは、命を絶つことではないはずです。
死刑について考える(その1)
http://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/1-b547.html
死刑賛成の人にぜひ読んでほしい
http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshikey66/62279674.html
死刑廃止は世界の潮流!! 死刑は非人道的ゆえに廃止すべし!!
http://sikeihasi.exblog.jp/
他人事ではありえない事故や事件
クレーマー&クレーマー 2012/07/07 11:59:30:JST
幼稚園教諭の松井洋子さんが殺害された事件のように、人を人と思わない凶悪な犯罪者が警察の手を逃れて私たちの周りで生活しています。私たちは、いつそういう凶悪な犯罪者の標的になってもおかしくない状況にあります。これは、刑務所で刑期を終了しても娑婆に出て来た途端に悪事に手を染める者が後を絶たないからです。
刑務所では、罪を犯した者に矯正教育を実施しています。しかし、現実は、その教育の効果は疑問だらけです。罪を犯したことを反省しているように見せかせて一日も早い仮釈放を狙っている者が多いのです。
『真夜中の看守長 ルナーミッション』(河村龍一・著)の帯のキャッチコピーが「外道ども、許さねぇ」です。これは、まさに罪をまったく反省することなく、更なる犯罪を企てているような者に対する怒りを表現したものです。その怒りがこの小説を生みました。
元関東連合、見立真一
(転載記事)
転載元 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/jabaojp/13080173.html
国際刑事警察機構(ICPO)
http://www.interpol.int/notice/search/wanted/2013-9537
見立真一
見立てはイツ逮捕されるのだろうか?
川崎中学生惨殺事件に見る存在感ない親たちに疑問を感じる
(転載記事)
転載元 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/n_nagasaki79/41843239.html
川崎の中学生の凄惨な殺人行為を犯人捜しはもとより、こうした現実を親が教育者が大人がどう見て何を互いに考えなければならないかである。犯人捜しは警察に司法に任せておけばいい。私たち大人が親が考えなければならないことが抜けている。
親とはなんなのか。親の存在が出てこない。この子供たちは一人で勝手にこの世に生まれてきたのか?親がいて生まれてきたのである。しかし、親の存在がないというのが不思議でならない。
どうしてこんな残忍な殺し方をする子供ができたのか。子供を育て上げる責任は、個々の親が基本である。犯人捜しは当然である。処罰を受けさせるは当然である。これは警察に任しておき、私たちが考えなければならないのは、子育ての重要性である。
働く女性、女性を社会に輝かせよう。これはこれとしてよいが、三つ子の魂百までもの教えがある通り、子育ての重要性である。乳飲み子を生産性の良い環境だけで他人の手にゆだねていいのか。私は断固反対である。
乳飲み子は母親の手で、母親のひと肌の温かい母乳で確かなぬくもりと抱かれている安心感の中で育てるのが自然で必要な時間であるからです。子育ては、お人形さんごっこではないのである。真剣に命を守り育てるという行為である。その辛さもあえてできるのはわが子であり、未熟な小さな命であるからこそ寝不足、孤独感にもなんとか耐えられるのである。
子供は父親、母親がいてこの世に生まれてきた二人の分身である。父親には自覚意識がないとするが、無責任な通説という言動に囚われるなである。父親は確かなのである。おなかを痛めなくとも父親であることには変わりはない。二人で二人三脚で子供の成長、幸せを守り育てるのが親である。
金がないから子供を施設に預けてしか子育てができない。それは言い訳でしかない。そんな言い訳でこの世に生まされた子供にはいい迷惑でしかない。子供を産み親になるとは、どんな過酷な状況であってもわが子を育て、子の命を守り、社会に出しても人様に迷惑をかけない子供の基本を親がマンツーマンで教える義務と責任があることである。
政治や政治家が意図する不自然な風潮に乗ってはならない。子育てを破壊し、家族の団らんを破壊し、教育をゆがめる、そんな一時代の政治に利用されてはいけない。
名もなく金もなく身分もなくそれでも幸せを築くことができるのは、一人ひとりの子供を確かに育てることによって小さな幸せでも幸せが確保できることである。子育てという親の責任と義務と愛情を今一度真剣に考える必要があることを思い出してほしい。
にほんブログ村
(再掲載)著者からのコメント
昨年9月、八王子市のスーパーの警備員(61歳)が通り魔に刺殺されるという悲惨な事件が発生しました。逮捕された犯人は、刑務所を出所して措置入院となり、6月に退院したばかりでした。
八王子市内では過去にも大和田町で、3人のスーパーの女性店員が、閉店後の事務所に侵入した強盗によって拳銃で射殺されるという残忍な事件も発生(1995年7月30日)し、未だに犯人は逮捕されていません。
そして、世田谷区では、4人家族の全員が惨殺されるという事件(2000年12月30日)も起きましたが、それも未解決のままです。
いったい、この国の治安はどうなっているのでしょうか。刑務所などの矯正施設が正常に機能しているとは思えません。刑法に不備・不条理が内在し、犯罪者の人権偏重主義に起因している実状を、この『真夜中の看守長 ルナーミッション』の中で、フィクションという図式で描きました。
今年の2月20日、「光市母子殺害事件」の犯人である被告の元少年に、最高裁は死刑の判決を下しました。この事件で、奥さんと生後11ヶ月のお子さんを亡くした本村洋さんは、「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う」と、判決後にその悲痛な心境を語りました。
本村さんは、同様に妻を殺害された元日本弁護士連合会副会長岡村勲さんらと共に犯罪被害者の会を設立し、犯罪被害者の権利の確立を呼び掛け、犯罪被害者等基本法の成立に尽力しました。「何もしなければ始まらない。小さな一歩でも始めれば、社会が変ると実感できた。司法制度を変えることができたのは良かったと思う」とも言っています。
私もその本村さんの訴えには共感します。本書執筆のきっかけは、まさに同事件の発生にあります。現職の刑務官として、罪を犯 した者を処遇する立場から、その凶行には義憤を覚えずにはおれませんでした。
私は、凶悪な犯罪が後を絶たない現実に対する問題提起としてこの小説を執筆しました。読者の皆さまにおかれましても、「刑法の厳罰化」という著者の『仕置き』に賛同され、『立法化』に向けて参画されることを願っています。
2012年3月1日
Ryuichi Kawamura
河村 龍一
にほんブログ村 |
謝ってすめば法律はいらない
(転載記事)
転載元 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/n_nagasaki79
三鷹ストーカー殺人控訴審初公判 池永被告、初めて謝罪
池永被告は1審で「遺族の気持ちは想像できるが共感できない」とし、謝罪の意思を示さなかった。2審の被告人質問では、1審判決後に反省を深めたとして「遅くなりましたが、娘さまの命を絶ってしまったこと、家族の絆を断ってしまったことにおわび申し上げます」と述べた。
1審判決によると、池永被告は昨年10月8日午前、生徒宅に侵入し、午後4時55分ごろ、生徒の首や腹部をペティナイフで刺して殺害した。
厳罰の必要性
(転載記事です)
転載元 ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/aizawa_takeshima/38248407.html
このブログを見て下さい。
前田服役囚、12年の判決が不服で大阪高裁へ控訴しました。
不服内容は、飲酒運転は認めているが、ひき逃げはしていないと主張しています。
なんと、その理由が酔っていて覚えていないと。
裁判傍聴でも、彼の顔色から反省は全く感じられませんでした。
彼の家族も、同じです。夫の飲酒運転を数年間見過ごして来ました。
全くふざけた輩です。
前田服役囚は、前日も事故を起し警察へ届ける事なく現場から逃げています。
恐らく飲酒運転をしていたので、警察への届けが出来なかったのは容易に
想像が付きます。
翌日、2回連続のひき逃げ覚えていないだと。
フロントガラス割れたのは、紫苑君をはねた時であり、その後も捕まらないように
市内を逃げ回っています。
記憶を失うほど酔っていては運転出来ません。
こんな事を許しているのは今の道路交通法の不備が多すぎるからです。
また刑罰も最高20年(悪質の場合は5割増し)を実行しないからです。
飲酒運転で人を撥ねたら、最低でも20年にすれば少しは飲酒運転無くなると
思います。
飲酒運転に2人撥ね殺して14年が、相場だとぬかす裁判所も許せません。
裁判員制度を生かし、極刑を科しましょう。
最高裁は、文句を言うなの一言です。