川崎中学生惨殺事件に見る存在感ない親たちに疑問を感じる

転載記事

  転載元 http://blogs.yahoo.co.jp/n_nagasaki79/41843239.html

川崎の中学生の凄惨な殺人行為を犯人捜しはもとより、こうした現実を親が教育者が大人がどう見て何を互いに考えなければならないかである。犯人捜しは警察に司法に任せておけばいい。私たち大人が親が考えなければならないことが抜けている。
  
親とはなんなのか。親の存在が出てこない。この子供たちは一人で勝手にこの世に生まれてきたのか?親がいて生まれてきたのである。しかし、親の存在がないというのが不思議でならない。
   
どうしてこんな残忍な殺し方をする子供ができたのか。子供を育て上げる責任は、個々の親が基本である。犯人捜しは当然である。処罰を受けさせるは当然である。これは警察に任しておき、私たちが考えなければならないのは、子育ての重要性である。
  
働く女性、女性を社会に輝かせよう。これはこれとしてよいが、三つ子の魂百までもの教えがある通り、子育ての重要性である。乳飲み子を生産性の良い環境だけで他人の手にゆだねていいのか。私は断固反対である。
   
乳飲み子は母親の手で、母親のひと肌の温かい母乳で確かなぬくもりと抱かれている安心感の中で育てるのが自然で必要な時間であるからです。子育ては、お人形さんごっこではないのである。真剣に命を守り育てるという行為である。その辛さもあえてできるのはわが子であり、未熟な小さな命であるからこそ寝不足、孤独感にもなんとか耐えられるのである。
 
子供は父親、母親がいてこの世に生まれてきた二人の分身である。父親には自覚意識がないとするが、無責任な通説という言動に囚われるなである。父親は確かなのである。おなかを痛めなくとも父親であることには変わりはない。二人で二人三脚で子供の成長、幸せを守り育てるのが親である。
  
金がないから子供を施設に預けてしか子育てができない。それは言い訳でしかない。そんな言い訳でこの世に生まされた子供にはいい迷惑でしかない。子供を産み親になるとは、どんな過酷な状況であってもわが子を育て、子の命を守り、社会に出しても人様に迷惑をかけない子供の基本を親がマンツーマンで教える義務と責任があることである。
  
政治や政治家が意図する不自然な風潮に乗ってはならない。子育てを破壊し、家族の団らんを破壊し、教育をゆがめる、そんな一時代の政治に利用されてはいけない。
  
名もなく金もなく身分もなくそれでも幸せを築くことができるのは、一人ひとりの子供を確かに育てることによって小さな幸せでも幸せが確保できることである。子育てという親の責任と義務と愛情を今一度真剣に考える必要があることを思い出してほしい。
                                                                                              
                                                                                            
                                                                                  にほんブログ村 小説ブログ ドキュメンタリー小説へにほんブログ村


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。