法は、被害者遺族の思いにもっと寄り添うべし
三鷹女子高生刺殺事件 判決
判決は死刑ではない。ご両親が怒り狂うのは当然である。
ここまで身勝手な仕打ちを受け、最愛の娘を奪われ、娘へのプライバシーの侵害を受け死後の世界まで好奇な目で見られる娘の心情を思えば思うほど怒りでいっぱいになるのは当然のこと。
裁判での判決には、こうした血の通わない判決が最近多すぎる。
被害者、遺族の理不尽さを法が裁くことが出来ないのならば、裁判も不要である。
司法を信じて悲しみ悔しさをかみしめたご両親の心情に報いてあげてこそ法、司法の公正公平であるはず。すべてがはっきりしている事件こそ、司法は悪を罰せねばならぬ。
冤罪でもなんでもない。こうした残虐、残忍な行為を許しては社会での善悪をどう示しがつくのであろうか。
裁判官の理念、義務を全うできないのであれば即辞めてもらいたい。
税金の無駄になるだけ。
私たちは、あなた方に高い報酬をだし仕事を委託しているのです。
2014/8/5(火) 午前 10:20
http://blogs.yahoo.co.jp/n_nagasaki79/41435656.html より
「被害者、遺族の人たちが感情的になるのは仕方がない。しかし外側にいる者たちまでが感情的になってはいけない」と言う人がいる。しかし、被害者や遺族の身に思いを寄せるならば感情的になるのは当然だ。それが血の通った人間というものだ。
死刑に反対する人たちが自分の家族が被害者になった場合、そういう冷静さでいられるのか。極めて疑わしい。他人事だと思っているところがあるのではないか。とりわけ通り魔事件は、すべての人が被害者になり得る。決して他人事ではあり得ない。結果責任としてそれなりの刑罰が与えられるのは当然だ。
死刑はその中でも最も重い刑罰だ。人の命を奪って自分は死にたくないはいい加減にしろと言いたい。死刑反対論者に対しても同様なことが言える。「あなたは自分の家族が無残に殺されても死刑に反対できるのか」と。
http://blogs.yahoo.co.jp/n_nagasaki79
死刑賛成と、「被害者遺族感情」を利用して叫ぶ人を、私は決して信用しない
http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshikey66/62653703.html