死刑執行はどうあるべきか
我が国において死刑は、札幌、宮城、東京、名古屋、大阪、広島、福岡にある刑務所もしくは拘置所で執行されます。2012年10月23日現在、133名の死刑確定者(いわゆる死刑囚)が収容されて刑の執行を待っています。
死刑は、それぞれの施設にある刑場で執行されますが、その刑場が2010年8月27日、初めて公開されました(東京拘置所、千葉法相)。死刑制度には様々な意見があります。裁判員裁判では死刑の判断をしなければならなくなることから更なる議論の高まりを目的とするものでした。
死刑は絞首という方法で執行されます。絞首という方法による死刑の残虐性を指摘する意見もありますが、どんな方法であろうとも死刑そのものが認められないとして死刑廃止を主張する声も根強いものがあります。
河村龍一は、死刑制度を容認した上で死刑執行のあり方について大きな提言をフィクションという形で行っています。それは、我が国の司法制度の下では画期的なものです。あくまでも河村龍一は、問題提起となることを意図してそういうストーリーを展開しています。単なる娯楽作品としてこれを執筆したのではありません。
詳しいことは著者からのコメントをご覧ください。
著者からのコメント
http://mayonaka-kansyutyou.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14-3
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死刑反対論者にとっての正当防衛
http://mondai-kaimei2011.blog.so-net.ne.jp/2012-11-09-2
死刑廃止論者は、「死刑も殺人に変わりはない」という理屈を持ち出して死刑の不当性を主張しています。しかし、自己の身勝手な動機で見も知らぬ人を無差別に殺害する通り魔事件の加害者の行為と、法律に基づく刑罰としての死刑を同一とすることにはとんでもない論理の矛盾があります。
確かに、人の命を奪うという点においては非合法の殺人も、刑罰としての死刑も変わりはありません。しかし、非合法の殺人で失われる命は、ほとんどの場合が加害者に対して何の落ち度もない人の命です。何らかの落ち度があって加害者が犯行に及んだというのであれば、加害者に同情する余地もありますが、何の関係もない加害者から突然にその命を奪われるということは、善良な市民生活を送っていた人にとってとても理不尽極まりないものです。
死刑に反対する人は、自分がそういう状態に置かれた時のことを想像できないのでしょうか。今まさに見も知らぬ者から殺害されようとしている時、その加害者に対して「なぜだ」という疑問や怒りは生じないのでしょうか。その加害者に対して反撃に出ることによってその窮地を脱することができるのに、死刑に反対する人は、おとなしく殺害されるのを待つというのでしょうか。
身勝手な動機で奪われる命が善良な一般市民の命であるのに対して、死刑によって奪われる命は、残虐非道な、身勝手極まりない行為を行った者の命です。対象となる命に大きな違いがあります。
死刑廃止論者は、どんな人間でも命は等しく尊いという理屈を持ち出して死刑を非難します。しかし、何の落ち度もないのに一方的に殺害された側としてはそういう理屈は、「死刑廃止論者にとってこの上なく都合のいい理屈」としか受け取れないのではないでしょうか。いつまでたってもそういう非現実的な空虚な理想論を主張していることが、死刑廃止論に共感する人を増やすことができない大きな背景にあるのではないのでしょうか。
死刑が殺人と変わらないというのであれば、正当防衛や緊急避難によって人の命が奪われる場合も殺人と変わらないことになります。死刑に反対する人は、正当防衛や緊急避難も認めないというのでしょうか。ぜひその点についての見解をお示しください。
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